2009年12月09日

動員

動員(どういん)とは通常何らかの目的の為に物資・人員を集中することをいう。元々は軍事用語からの転用であり、この項目では軍事用語としての動員を解説する。
動員は19世紀後半から第一次世界大戦後までの間、全ての主権国家が恫喝や戦争遂行のために準備していた軍事的手段。動員によって軍隊は平時編制から軍時編制に移行し、この時期の軍隊においては動員の主任務は兵を召集することにあった。

動員の下地である近代徴兵制度はフランス革命後のフランス共和国において初めて実施され、1850年代のプロシアが国民皆兵を実施し普仏戦争に大勝したことにより、その後数十年の陸軍の基本が徴兵と動員に決定した。
近代において動員と召集はほぼ同義であるが、現代においては戦時編制に移行する際に兵の招集を行わないために、動員の意味は変化している。
戦時に国民を動員するためには、そもそも国家が平時から国民を兵士として訓練する必要がある。近代国家が徴兵令によって成年に達した国民を部分的にしろ徴兵し、そこで数年訓練を行う。彼らが戦時に兵卒として動員される。当然ながら、動員をかける際には訓練の記憶が新しく、体力的にも優れている若い方からなされる。
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19世紀後半においては、徴兵訓練人口が多ければ多いほどその国の潜在的軍事力が高いということになっており、これは特に間違いではなかった。部分動員の場合であっても徴兵人口が多ければ多いほど、一個師団を充足するための人員を狭い範囲から集められるので、各国は徴兵人口の増加に心血を注いだ。

このためヨーロッパ大陸諸国はこぞって徴兵人口を増やし、第一次世界大戦開戦時には、ドイツ・フランス両国の徴兵人口は成年男子の6割に達した。両国が高い徴兵人口率を達成できたのは、陸続きの国家は敵の侵入に対し、軍事的にも政治的にも可及的速やかに撃退力を有した陸軍を編成して撃退しなくてはならないという問題があるからである。独仏は、普仏戦争でも矛を交えておりエルザス・ロートリンゲンの問題のために当時は犬猿の仲で、互いに競って徴兵人口率を上げていた。

2009年11月30日

天使

天使(てんし)は、主として、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖典や伝承に登場する神の使いである。以下では、この3宗教における天使について叙述する。

なお日本語の聖典中では「み使い」と呼ばれることもあり、日本ハリストス正教会では神使(しんし)とも訳す(日本正教会では「天使」という語も併用される)。 また英語の「Angel」はギリシャ語のアンゲロスに由来しており、原義は「伝令」「使いの者」を意味する。
3宗教の聖典であるモーセ五書における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、ヤハウェの顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。旧約聖書における「仕える霊」「天の軍勢」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人のバビロン捕囚期以降に成立した概念と考えられている。ミカエル、ラファエルなど固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。3世紀のラビ・シメオン・ベン・ラキシュはこのことを指摘し、これらの天使がバビロニア王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。

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ここから、天使の概念は、アブラハムの宗教が広まり、他民族を取り込んでイスラエル民族が成立していく過程で、他宗教の神を、唯一神によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。またゾロアスター教の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、天国と地獄の概念、善悪の天使に分かれて戦う戦争の概念はゾロアスター教の考え方から影響があると言われている。しかし、天使が本来持っている霊的・神学的な概念を示す最古のものは、古代世界とはほとんど関係が無く、全ては旧約聖書と新約聖書に結びついている。

天使は、主に二つの類に分かれる。第一は、「み(御)使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム(熾天使)・ケルビム(智天使)・オファニム(座天使)がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。

2009年11月26日

甲殻類の生息環境は

甲殻類の生息環境は海を中心としている。鰓脚綱のものは、大部分が陸水産であるが、それ以外の類はほとんどが海産である。海中に於いてはプランクトン性のものから、底性、潜行性とさまざまなものが、極地や深海の熱泉を含むあらゆる環境に生息している。陸上であれだけ優勢な昆虫が海産種をほとんど持たない理由として、往々に甲殻類が多くのニッチを占めていることが揚げられる。

淡水には、鰓脚綱やエビカニなど、分類群は限られるが、多くの種があり、河川や湖、池から小さな水路、あるいは地下水にまでさまざまな場所に生息する種がある。海から切り離されて淡水となった湖には、海産の群の特殊なものが出現する場合があり、海跡動物と言われる。

陸に生息するものは更に種類が少なく、カニ類、ヤドカリ類と等脚類(ワラジムシ・ヒメフナムシ・ダンゴムシ)、端脚類(ヨコエビ)、それにケンミジンコ類とカイミジンコ類などの少数の種が知られている。土壌生物として繁栄しており、一般に土壌中のバイオマスとしては上位を占め、しばしば優占する[要出典]。
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エビやカニに他の動物と共生生活をするものが知られている。カニ、ヤドカリとイソギンチャク、ハゼとテッポウエビなどが有名である。
食性は肉食のものから草食、デトリタス食、寄生性まで多岐にわたる。

体に保育のうなどを持ち、卵が孵化(ふか)するまでここで保護するものが多い。孵化後もしばらく親が保護する習性を持つものが、等脚類などに知られている。さらに、カリブ海では真社会性のテッポウエビが発見されている(以上、朝倉(2003)等から)。

2009年11月11日

白人至上主義の類例

アメリカにおける白人主義の代名詞としてしばしば紹介される著名な団体。元々は南北戦争後に旧南軍兵士らが立ち上げた交遊会であったが、次第に南部の反黒人グループを統合する存在として台頭した。政府により非合法化された事で一度解体されたが、後にキリスト教原理主義と結びついて(その為、当初は無かった「反ユダヤ主義」などの宗教的教義が加えられた)、「第2のKKK」として再興された。アメリカ中南部を中心に活動し、最盛期は構成員が知事に選出されるなど権勢を極めた。しかし性愛問題など人種主義から離れた部分への論難やリーダーのスキャンダル事件によって衰退し、現在は無数の小規模組織に分裂している。Stormfront管理人のドン・ブラックはKKKと太いパイプを持っており、ネット上の白人主義でもKKKが影響力を維持している。

その名の通り、ナチスの後継を自負するネオナチ系団体で、退役軍人のジョージ・ロックウェルによって結成された。ナチスのアーリア人主義(ヒトラーは「アーリア人」を「白人」と同意義の用語として用いていた)と反共主義を掲げ、また反ユダヤ主義の観点から「第2のKKK」を離脱した者達も多く含まれていた。とはいえヨーロッパのネオナチ運動が必ずしもナチズムと同一ではない様に、彼らもまた独特の政治的主張を行っていた。指導者ロックウェルの暗殺によって壊滅するが、この運動は後述するナショナルアライアンスへと繋がり、アメリカの白人主義者へ多大な影響を与え続けていく。
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アメリカン・ナチス党の元幹部であった物理学者ウィリアム・ピアスによって指導された運動。思想自体は概ねアメリカン・ナチス党と変わらないが、俗に「ターナー日記」と呼ばれる他人種への怨恨に満ちた文書を広める事で、アメリカン・ナチス党の理念を白人至上主義全体に浸透させた事に大きな特徴がある。

2009年10月30日

排気循環方式

排気を吸込口へ戻し、ノズルから吐き出すことによってホコリを効率よく浮き上がらせ、再び吸引するユニークな方式。このためホースが2重構造になっており、内側を吸気、外側を排気が流れる。排気が本体と吸込口を循環するため、総排気量が非常に少なく、排気によるホコリの舞い上げが少ないメリットがある。また、モーター室が密閉に近い構造になるため運転音が静かになる。ただし、モーター冷却のためのわずかな排気を車輪の横から排出している。モーター冷却性能が劣ることから消費電力を抑える必要があり、結果として吸込仕事率は小さい。1999年にサンヨーから世界で初めて発売されたが、2009年5月現在、同社のラインナップにこの方式を採用している製品はない。

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吸水掃除機は、水分を含んだ物品の吸引を可能とした真空掃除機である。水分を含んだものの回収や、液体の回収が効率的に可能である。

容器に入れた数リットルの水をくぐらせる吸引掃除機も存在する。洗剤等の界面活性剤を混ぜた水フィルターを透過する事で花粉等の微粒子を取り除く事ができる。内陸部で湿度の低い海外では普及しているが、水フィルターを通す時に排気中の湿度が上昇するため湿度の高い日本では季節によっては使用が適さない場合もある。

2009年10月20日

生田流系

八橋検校ののち、北島検校を経て、元禄の頃に京都の生田検校によって箏曲は改変、整理されたとされる。これは実際には師の北島がすでに密かに行なっていたのを生田が受け継ぎ、公にしたとも言われる。また生田検校は地歌曲に箏を合奏させることを始めたとされている。そして三味線の技巧に対応させるため、箏の爪の形状が大きく変えられることとなる。ただしこの時代、生田のみならず、大阪の継山検校の継山流などでも同様の流れがあり、実際には必ずしも生田検校一人が行なったことではないと言われる。この他にも上方では新八橋流、藤池流なども生まれたが、それら各流間の差異は大同小異であり、次第に「生田流系」とでも呼ぶべき一つの流れに収束して行った。この生田流系はまた多くの派に分かれつつ、幕末までに京、大阪を中心にして、名古屋から中国、九州まで広く行なわれるようになった。

上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。

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その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の地歌曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。

2009年06月20日

脂質(ししつ、Lipid)は、生物から単離される

脂質(ししつ、Lipid)は、生物から単離される水に溶けない物質を総称したものである[1]。特定の化学的、構造的性質ではなく、溶解度によって定義される。1925年に W・R・ブロール (W. R. Bloor) によって以下の生化学的脂質の定義がなされている[2]。

水に不溶、ただしエーテル、ベンゼンなど有機溶媒に溶ける
加水分解により脂肪酸を遊離する
生物体により利用される
ただし、上記の定義は現在では数多くの例外が存在し、十分な条件とは言えない。現在の生化学的定義では「長鎖脂肪酸あるいは炭化水素鎖を持つ生物体内に存在あるいは生物由来の分子」となる。

脂質は、おおまかに単純脂質・複合脂質・誘導脂質の3種類に分けられる。ただし、これらの分類に当てはまらない物質も数多く存在するため、あまり厳密なものではない。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

単純脂質 (Simple Lipid) - アルコールと脂肪酸のエステルをいう。アルコール部分には直鎖アルコールの他グリセリン、ステロールなどが、脂肪酸には多様な飽和脂肪酸または不飽和脂肪酸が使われる。
アシルグリセロール (acylglycerol; 別称: グリセリド、Glycerid / 中性脂肪)
蝋 (Wax)
セラミド (Ceramide)
複合脂質 (Complex lipid / Compound lipid) - 分子中にリン酸や糖を含む脂質で、一般にスフィンゴシンまたはグリセリンが骨格となる。
リン脂質 (Phospholipid; Phosphatide)
スフィンゴリン脂質 (Sphingophospholipid)
グリセロリン脂質 (Glycerophospholipid)
糖脂質 (Glycolipid)
スフィンゴ糖脂質 (Sphingoglycolipid)
グリセロ糖脂質 (Glyceroglycolipid)
リポタンパク質 (Lipoprotein)
スルホ脂質 (Sulpholipid)
誘導脂質 (Derived lipid) - 単純脂質や複合脂質から、加水分解によって誘導される化合物。生体中で遊離して存在するイソプレノイドもここに含める。
脂肪酸 (Fatty acid)
テルペノイド (Terpenoid)
ステロイド (Steroid)
カロテノイド (Carotenoid)

2009年06月02日

皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ

11時42分、第7戦隊も沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認し、その後、友軍と合流した。13時15分からは、第3戦隊旗艦「笠置」をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた日本艦が列をなして第1、第2戦隊に合流しはじめた。 13時39分、連合艦隊主力の第1、第2戦隊もバルチック艦隊を左舷南方に視認し、戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。13時55分、東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた[11]。

14時02分、針路を南西にとる連合艦隊と針路を北東にとるバルチック艦隊は反航路(平行すれ違い)上につく。14時03分、両艦隊の距離は11,000mまで接近する。距離8,500m、「どちら側でなさるのですか…。」砲術長が砲戦の射撃準備を右舷とするのか、左舷とするのかを東郷にたずねた。距離8,000m、東郷は右手を高く挙げ、左へ半円を描くように示し、先頭をいく旗艦「三笠」は大きく左舷取舵を開始した。敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった[

この時代の軍艦は砲の多くが舷側に並んでいるので横方向に砲撃できれば前後方向より多数の砲が使用できた。縦隊でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることが出来るため、圧倒的に有利な形勢となる。この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとするため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた[6]。

東郷と秋山真之参謀は試行錯誤の末、一つの結論に達していた。それが敵前逐次回頭という敵の盲点を衝く事によって、強引に丁の字を形成する方法だった。しかし当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭は艦を危険に晒す暴挙であった。「三笠」の回頭を目の当たりにしたバルチック艦隊の将兵は「東郷は狂ったのかと思った」「勝利を確信して喜びあった」という。

14時05分、先頭艦の「三笠」に続き戦艦「敷島」も取舵一杯、後続艦も順次回頭を開始する。14時07分、距離7,000mでバルチック艦隊が砲撃を開始し、先頭の「三笠」に攻撃を集中してきたため、三番砲塔を打ち抜かれるなど、回頭完了までに16発の命中弾を受けた。
通信販売 学習 産業 サプリ 信越北陸 ダイエット 経営 お祝い 増客対策 暮らし 整体 健康 文房具 パソコン ホテル 教育 水族館 矯正 マンション 美容 宣伝 賃貸 健康 警備 抜け毛 食品 海外留学 ペット 学習 公園 若返り 家庭教師 予約 理容 賃貸 矯正 SEM促進 養育 子育て 介護 抜け毛 不用品 学習指導 生活雑貨 音楽 旅行 美容室 特産物 化粧品


14時10分、距離6,400m。日本の連合艦隊の先頭部は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。連合艦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスラビア」に対して榴弾による一斉砲撃を開始する。「スヴォーロフ」に向けられた「三笠」の試射1射目は目標を飛び越えて海面で炸裂した。2射目は手前の海面を波立たせた。3射目が「スヴォーロフ」の前部煙突を吹き飛ばし、続く砲弾は司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数を負傷させた。日本側も被害が出始めた。第2戦隊の装甲巡洋艦「浅間」が舵機を損傷して戦列から離れた。

14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊先頭の2艦に多数命中し、「オスラビア」と「スヴォーロフ」で火災が発生する。14時35分、連合艦隊は東南東に転針、バルチック艦隊の進路を完全に遮蔽し丁字が完成した。バルチック艦隊の速度15ノットに対して日本の艦隊は18ノットであった。この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時43分、「スヴォーロフ」と「オスラビア」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら戦列から離脱した。「スヴォーロフ」は12ノットながらまだ航行してたが、再び司令塔内に砲弾が飛び込み、2発目の戦闘は不可能であった。「オスラビア」は更に悲惨な状況にあり、14時50分には大火災を起こしながら沈没した。日本の主力戦艦の30.5cm砲は、ロシア艦隊との距離が3,000mを切った段階で鐵鋼榴弾から徹甲弾に切り替えた[9][6]。

この決定的な30分間の砲戦で、海戦の大勢は決した。

2009年04月30日

大欽茂

大欽茂(だいきんも)は渤海の第3代王。大武芸の第3子として生まれた大欽茂は737年に渤海国王の地位を継承すると、大興と改元した。即位後、唐は内侍を派遣し渤海郡王 左驍衛大将軍 忽汗州都督に冊封された。その治世は唐の制度に学び国内を整備する文治政治に特徴がある。

大欽茂即位以前の渤海では部族制と郡県制が並存した行政制度であった。それを唐制度に倣い上京龍泉府を中心とし、域内に府州を設置することで中央集権的な統治を確立する基礎を整備し、また中央統治機構も三省六部を整備しその支配体制を強化した。またこの時代には散官制度と勲爵制度が整備された。

中央制度では唐の五京制に倣い上京・東京・中京が設けられ、780年代には東京龍原府への遷都が実施されている。また『続日本紀』には南海府の名称も出現し、同時に東京の名称から西京が既に整備されていたことが類推されこの時期に渤海の五京制が確立していたと類推される。この五京制は渤海のみならず、後の遼や金の時代にまで影響を与えるものであった。

大欽茂は即位直後から唐に積極的に使節を派遣し、半世紀の在位期間中に記録に残るだけでも50回以上の通貢が確認されている。これは政治的な安定を求める目的以外に、唐から先進的な文化や制度を学ぶ目的も重視された。大祚栄や大武芸の時代にもある程度の留学生派遣と漢籍導入が行なわれていたが、大欽茂が即位すると留学生数は飛躍的に増大し、より多くの漢籍を日本にもたらしている。事実この時代の墓碑とされる貞恵公主墓碑と貞孝公主墓碑には『尚書』『詩経』『易経』『礼記』『春秋』『論語』『孟子』『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』など多くの書籍からの引用が見られる。

唐では節度使である安禄山と史思明による安史の乱が発生すると、その影響は渤海にまで及ぶこととなった。安禄山は平盧節度使として渤海・黒水など4府の経略使の職務を兼任していたが、当時の官制では渤海都督府の上部機構であり、安史の乱は渤海の上部機構による叛乱であった。この叛乱は渤海に波及することを恐れた大欽茂は西部国境に大軍を配すと共に、日本の朝廷との連絡を取り事態の対応に当った。

755年、安禄山郡は唐の東都である洛陽を占拠し、やがて潼関を通過して長安に至った。これにより玄宗は四川へと逃れたが、一連の戦闘の影響を受け営州地域は乱れ、渤海と唐の交通が寸断される事態となり、この前後4年間、唐側の記録からは渤海入貢の記録は姿を消した。

これに対し唐は地方機関より2度使者を渤海に派遣している。最初は756年秋に平盧後(節度使の代行)である徐帰道による使節であり、渤海に対し反乱鎮圧のための兵の出兵を求めるものであった。この時は徐帰道が唐に背き安禄山に走ったことを知り出兵は見送られている。また757年には、権知平盧節度使の王玄志が皇帝勅書を奉じて将軍の王進義を派遣した。当時玄宗は四川に逃れ、太子の李亨が霊武郡で即位し、長安及び洛陽の回復を計画していた時期に相当し、これに関連した使節派遣であると推察される。しかしこの際も大欽茂は慎重な態度を取り具体的な行動を起こさなかった。

安史の乱に際して渤海は反乱軍に呼応することや、混乱に乗じて勢力拡大を行なうことを避け極めて慎重な行動を取り、一貫して唐を支持していた。これは安史の乱平定後の759年に楊方慶を唐に入朝させ、翌年の正月を賀している行動が一つの傍証と考えられている。また唐も762年に大欽茂を渤海郡王から渤海国王に変更しており、この事からも渤海と唐の叛乱期間中の良好な関係が推察される。

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大武芸の時代から開始された日本との交流であるが、大欽茂の時代には十数回の使節が派遣され、また使節の規模も大規模なものになった。

使節派遣当初は安史の乱に関する情報交換があり、また叛乱により帰国が困難になった遣唐使を渤海経由で帰国させるなどの性格があったが、その性格は次第に政治・軍事的なものから、次第に文化・経済的なものへと変質していった。

また国家としての施設派遣以外に、746年には渤海人及び鉄利人千百余人が日本に赴き民間貿易を計画するなど、日本との関係を重視した外交政策を展開していたと推察される。

2009年04月15日

ウマル・イブン=ハッターブ

ウマル・イブン=ハッターブ(Umar ibn al-Khattāb, 592年? - 644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年 - 644年)。
アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがイスラーム教を開くと、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回った。伝えられるところによれば、血気盛んな若者であったウマルはある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、その道すがら自身の妹と妹婿がイスラームに改宗したと聞き、激怒して行き先を変え、妹の家に乗り込んで散々に二人を打ちすえた。しかし、ウマルは兄の前で妹が唱えたクルアーン(コーラン)の章句に心を動かされて改悛し、妹を許して自らもイスラームに帰依した。ウマルがムスリム(イスラーム教徒)となると、クライシュ族の人々はウマルの武勇を怖れてムハンマドに対する迫害を弱め、またマッカで人望のあるウマル一家の支援はマッカにおいて最初期の布教活動を行っていたムハンマドにとって大いに助けとなったといわれている。

622年にムハンマドらムスリムがマッカを脱出し、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住するヒジュラ(聖遷)を実行したのちは、マディーナで樹立されたイスラーム共同体の有力者のひとりとなり、イスラーム共同体とマッカのクライシュ族の間で行われた全ての戦いに参加した。また、夫に先立たれていたウマルの娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、ムハンマドの盟友としてウマルは重要な立場にあったことがうかがえる。

ムハンマドの死から [編集]
632年にムハンマドが死去すると、マディーナではマッカ以来の古参のムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降の新参のムスリム(アンサール)の間で後継指導者の地位を巡る反目が表面化したが、ウマルは即座にムハンマドの古くからの友人でムハージルーンの最有力者であったアブー=バクルを後継指導者に推戴して反目を収拾し、マッカのクライシュ族出身の有力者が「神の使徒の代理人」を意味するハリーファ(カリフ)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。アブー=バクルが2年後に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなる。

2代目カリフとして [編集]
ウマルは当初「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー خليفة خليفة رسول اللّه khalīfa khalīfa Rasūl Allāh )を名乗る一方、後世カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン امير المؤمنين amīr al-mu'minīn )の名乗りを採用した。また、ヒジュラのあった年を紀元1年とする現在のイスラーム暦のヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した 。伝承によると、「信徒の指揮官」という称号は、彼の治世時代に教友のひとりがたまたま口にした言葉をウマルが非常に好ましい名称と思い、採用したと伝えられる。彼をこのように呼んだ最初の人物は預言者ムハンマドの従兄弟のアブドゥッラー・ブンジャフシュとも、アブー=バクルと同じタイム家の重鎮ムギーラ・ブン・シュウバとも、アムル・イブン・アル=アースとも言われている。

政治の面では、アブー=バクルの時代に達成されたアラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出してアラブの大征服を指導した。征服した土地では、アラブ人ムスリム優越のもとで非アラブ人・非ムスリムを支配するために彼らからハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収する制度が考案され、各征服地にはアーミル(徴税官)が派遣される一方、軍事的な抑えとしてアミール(総督)を指揮官とするアラブ人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設された。ウマルはミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税機構を生かすための財政・文書行政機構としてディーワーン(行政官庁)を置き、ここを通じて徴税機構から集められた税をアター(俸給)としてイスラーム共同体の有力者やアラブの戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築き、歴史家によって「アラブ帝国」と呼ばれている、アラブ人主体のイスラーム国家初期の国家体制を確立した。

638年には首都のマディーナを離れて自らシリアに赴き、前線で征服の指揮をとった。同じ年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、キリスト教のエルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)とし、彼等がイスラームの絶対的優越に屈服しジズヤを支払う限りに於いて一定程度の権利を保障することを約束した。(ウマル憲章)このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが一夜にしてマッカからエルサレムに旅し、エルサレムから天へと昇る奇跡を体験したとき、ムハンマドが昇天の出発点とした聖なる岩を発見し、そのかたわらで礼拝を行って、エルサレムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝する慣行をつくったとされる。この伝承に従い、ウマイヤ朝時代にこの岩を覆うように築かれた岩のドームは、通称ウマル・モスクと呼ばれる。またウマルはソフロニオスから神への祈りを共にするよう誘われたが、イスラームの絶対的優越への確信とキリスト教への軽蔑心からこれに応じなかったと言われる。

ジハード、死 [編集]
642年にはイランに進んだムスリム軍がニハーヴァンドの戦いに勝利し、サーサーン朝を壊滅状態に追い込むが、ウマルは同じ年、マディーナのモスクで礼拝をしている最中に、主人に個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。これは教友のひとりでウマルによってバスラ、クーファの長官となっていたアル=ムギーラ・ブン・シュウバの奴隷(グラーム)のアブー=ルウルウという人物によるものであった。殺害の動機はウマルがハラージュ税を定めた時に彼の主人にも課税されたためこれを恨んだからであったという。ウマルはこの時6ケ所を刺される重傷を負い、3日後に非業の死を遂げた。

伝承によると、アブー=ルウルウは彼自身その場で取り押さえられて報復として殺害されているが、この時彼はモスク内で詰め寄ってきた人々をさらに11人刺しており、内9名が死亡するという大惨事となった。ウマルは刺された後、死の直前に後継のカリフを選ぶための、ウスマーン、アリー、タルハ・ブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・ブン・アル=アッワーム、アブドゥッラフマーン・ブン・アウフ、サアド・ブン・アビー=ワッカースの6人からなる有力者会議(シューラー)のメンバーを後継候補として指名し、さらにアンサールのアブー=タルハ・ザイド・ブン・サフルに命じて他のアンサールから50人の男を選んで、彼らの6人から一人を選ぶようにも命じた。このような経過の末ウマルの死の後、互選によってウスマーン・イブン=アッファーンが第3代カリフに選出された。

スンナ派、シーア派の評価 [編集]
スンナ派では、ウマルは理想的な政治を行った指導者として非常に尊敬されている。もともと迫害側の有力者であったウマルの改宗は、ヒジュラ前の初期のイスラーム共同体にとって大きな転機となったので、ウマルはムスリムからは「ファールーク」 al-Fārūq الفاروق (「真偽を分かつ者」)と呼ばれる。しかし、シーア派ではアブー=バクルとともにムハンマドの娘婿アリーが継承すべき指導者の地位を簒奪したとみなされ、呪詛の対象となることもある[1]。なお、ウマルはカリフとしてウマル1世と呼ばれることもあるが、これは後のウマイヤ朝第8代カリフ、ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)と区別するためである。

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